ある異文化交流に関しての一文
その試合が終わった後、私は対戦相手の国から試合観戦にやってきた人と話す機会を得た。
その人は私にこう聞いた、ように記憶している。
「今日の試合は私たちにとって、素晴らしいものだった。あなたはどうだった?」
その時私はちょっとウソをついた。厳密には彼女にウソはついていないのだが、自分にウソをついた。
「今日あなたたちの国の選手は素晴らしいプレーだった、私はずっとわくわくしてた。本当に興奮した」
間違ってはない。だけど自分が感じた肝心なところを答えることをしなかった。
だからたぶん今もぐるぐるとしているし、それはその後の試合を見ていてもずっとぐるぐるついて回っていた。
確かに私はその相手方のチームを応援していた。直前の親善試合的な大会でも租が見えて、この大事な試合を突破できないのではないかと内心本当にハラハラしていた。これは事実。だから「勝ってよかった」と思った。これも事実。
でも、自分が目を背けてしまった、言えなかったことはこうだった。
「自分たちの国の選手は正直もっとできると思っていた。もっとワクワクする試合になるんじゃないかと思っていた。だけどそうではなかった。試合に対して十分に準備できないままに、あの会場で試合の日を迎えてしまった。それが私は残念なんだ」
そして今、クラクフからやってきた、あの美しい人にまた会えたならこういうと思う。
「私たちの国は、素晴らしい試合をするとか、その試合でベストを尽くす以前の段階で何度もつまづいてしまっています。私はとてもそれが残念です。そしてそれをどうしたらいいのかずっと考えている。でも答えが見つからなくて、今も、苦しい」
モチベーション
たまに走ったりしている。
と言っても、元々が健康診断で引っかかりまではしないものの、あれ、これは…と思い、一念発起して走り始めた。
のだが、ここにきて何度目かの挫折が始まってしまった。
一度走り始めるととても楽しい。特に3kくらい過ぎたあたりからは楽しく走れているような気がする。とはいえ、へなちょこなので、一度に走れる距離は10kにも満たないくらいなのです。
なんとかモチベーションを上げたくて、それがきっかけで走っている方のブログを拝見している。皆すごい。楽しそう、って思うのだが。どうにも走る前の筋トレが嫌だったりする。なんだかな。あと、今年買ったシューズが合わないような気もしていて、走っていて足の裏がたまに痛くなる。走らなくなると元に戻るのだけど。
困ったなあとか思いつつ、楽しいコースを探している…。
責任とはなんであるのか。
「自分の責任で(大きい大会には)行けませんでした」
長年ずっと考えているのだけど、果たしてこれは適当な記述なんだろうか。
バレーボールという大会を見るようになって、何度かそういう場面に出くわしたことがある。自分のせいで大会進出を逃してしまった、自分の調子が上がらなかった、ケガをしていた云々かんぬん。そして糾弾へと続く。選手をやめてしまう。もしくはギリギリのところまで煮詰まってしまう。それは視聴者の本位では決してないはずだと思う。少なくとも自分にとってはそうだ。
元々の出典が今わからないのだが、こういう記述を見かけた。
「責任とは行為に対する論証・説明をすることが本意だろう。」
これを元に考えると、一番上の記述は「大きい大会(たとえばオリンピックとか)」に対する論証や説明が足りていないことになる。清水選手がケガをしたからというだけではオリンピックに行けなかった説明にはなりえない。もっとも、ケガをしてしまうような練習方法があったとしたら、それは遠くではあるが説明になりえそうである。
2008年に予選を通過できたファクターはなんであったのか、そして2012年予選を突破できなかったファクターはなんであったのか、論証や説明をすることのないまま、「あの時行けなかった悔しさを胸に~」とか、「夢は断たれた~」とか、そういうこと「だけ」をマスコミの電波でガンガン流してしまう。論証や説明は内部ではひょっとするとおこなわれているのかもしれない。ただ、視聴者にはそれがわかりにくい。
論証や説明が行われているその可能性を感じながら選手のインタビューを聞くのは、どれくらいの人ができているんだろうか。そして、選手が自分の責任です、で言葉を終わらせる仕掛けが変わるには、何ができるんだろうか。
NCAA championsship その1
アメリカの大学リーグをたまにぽつぽつ見ている。
きっかけはtwitter上にて、アメリカの大学リーグを見ていた方が、ベンチの選手たちがラインダンスをやっているとつぶやいていたのを見て興味を持ったからだ。
その後、時間ができた時にのみ見ている有様なので、全然真面目ではない。
面白いなーと思うことその1。各国の有望な若者たちがちらほらと登場してくることだ。見ているとフランスとかプエルトリコとか、確認してないけど苗字を見る限りロシアからじゃないのかなとか、色々いらっしゃる。あ、ノルウェーの選手もいる(これはtwitter情報)みなアメリカの大学を目指してやってくる。それはアメリカの大学が、バレーボールの基礎をみっちりやってくれる養成機関として海外からは見られている、ということなんだろうか。
アメリカはfundamentalsを重要視するという。その基幹の部分が何物かはよくわからないのだけど、一つ一つの要素(サーブとかレセプションとかブロックとか)というよりは、一続きの何かをぐるっとさせてそして指導しているようなそんな感じがする。
その2。フランスの選手っていうのは状況判断がうまい。これまたtwitterで教えてもらったのだけど、15/16シーズンポーランドでプレーしていたティリがアメリカの大学在籍中に出た試合の動画を見た。よく相手のコートが見えていて、強打で攻めたかと思えばゆるく打ってまた絶妙に落とす。ティリは確実にいいプレーをする。そうした片鱗をまだ20かそんくらいの若いfrench manに感じた。のっけからサーブで緩急つけて攻める。なんだか末恐ろしい。ヌガペもルルーもよくコートが見えている印象だけど、きっと彼もなんだろう。szerszen。その名はポーランド語で蜂だという。面白そう。
東北1部と2部と黒鷲と
自分の中にあるバレーボールに関する問いは、とてもシンプルです。
「なぜそこにいれたのか」ということに尽きます。
もともとの出発点は、おそらく2004アテネOQTで、そして2008北京OQTなのだと思っています。津曲勝利選手に尽きます。とにかくなぜ津曲選手はそこにいられたのか?それが不思議で夢中で見続けてた記憶があるのです。もちろん、山本、越川、松本、石島、朝長、そして荻野など熱くなるプレーを繰り出してくれた選手たちの存在もあるんですが、ね。
そして熱が再燃した後、この問いがますます気になったのが2015WCのアメリカでした。なぜそこにいれたのか。津曲選手に始まった問いは、どうやらUSAのコートに立つ全員に言えることで、全員が有機的に、一つの生き物のように動く姿に不思議さを覚え、そして今の今まで続く問いの原動力にもなっています。それがあったからこそのスロベニアなんだろうな、とも思うのではあるが。
全員が有機的に動けるのは、事前の綿密な打ち合わせに依るところが大きいのか、それとも、全員がその場にいて、とにかく動きを合わせていく練習に依るところが大きいのか、私はバレーのプレーする側にいたことがないのでわかりません。でも、色々見ていていつも共通しているのは、勝てるチームは「そこにいた」、負けるチームは「そこにいなかった」。何もトランジションについて、レセプションについてのみ言えることではないのだと思います。サーブを打つ順番だったり、ローテだったりもするんだろうと思っています。ただ勝てるチームは間違いなく「そこにいる」ことが多い。
こういう現状をしっかり満たしているのが、おそらく今期の豊田合成だったと思うのです。そしてこの現状を激しい振り子のようにいったりきたりしまくったチームが今期の堺だったとも思います。それを「ノリ」という言葉で言ってしまうのはたやすい、でも豊田合成には「あって」堺に「なかった」ものはなんだったのか?黒鷲で豊田合成には「なくて」ジェイテクトに「あった」ものはなんだったのか。あの日、仙台大には何かがなかったんだけど、それはなんだったのか。でもそれを福祉大がもっていたといえるのだろうか。尚絅は持っていたけど、それはなんだったんだろう。
「なぜそこにいるのか」その問いに対する答えを探して、色んなバレーボールを見ています。そしてうすぼんやりと、その問いに対する答えはつかんでいるので、あとはその答えを下支えする根拠をかなり長い時間をかけて探していくのみです。
じゃあ今のJapanNTにそれがあるのかと言われるとどうなんだろうね。
160314
闘志むき出しのプレー、ファイトあふれるプレーとかいうものに心はつかまれる。
ただやっぱり怪我につながるプレーを見ると、一瞬は「うわ、すごいな」と思っても、そのあとで「危ないな、ケガ大丈夫かな」って思ってしまう。
私は、そういうプレーに対してあえて捨てる勇気も必要なのではないか、捨ててもいいんじゃないか、と思ったりする側だ。もちろん、ボールを追っていかない選手を見た時に「勝つ気がない」とか「やる気がない」という印象を持つことも、これまで少ない観戦経験の中で持っている。
でもさ、と。命あっての物種っていつも思う。
ケガしてからでは遅い。ケガしてでも、一瞬記憶に残るプレーは自分の目にはきっとこの上なく美しく映ることだろう。それでも、そのあとのその人には、その先の生活があることを思うと、やっぱり「そこは捨てて、仕切り直しで、違うところで一点を取ろう」と思ってしまう。こういうこと思うと、試合見るの、むいてないのかなって思うけどね。
20160308-0309
縁があれば、、、と思い、行った先の本屋でであった「眠らずに走れ」
帰りの電車で夢中になって読み、帰宅してからも夢中で読み、気がつけば読了(1周目)
読み終えての感想を
①もっと早くからバレー観戦をしておけばよかったという後悔
→もう引退し、プレーを見ることが叶わない?選手の活き活きとした姿が本の中には表れていた。柴田選手や川村選手(現監督)見てみたかった。遠い昔、一度Vを見に行こうと思った時があったけど、結局やめてしまったのを後悔している。その後の空白の期間にNECがなくなっていて、やっぱり後悔したのだが。更にそれが増した感じ。
②こうして記事で読めることのありがたさ、感謝
→読後、一番に感じたことだった。記事を読めて私は幸せだった。こうした記事が読めることを感謝しつつ、自分にできることは購入したり、ネット上の記事を拝読したりして、こうした記者の方を応援したいと切に感じた。
ちょうどTLで流れてきた記事に感じ入ることもあり、生で観れる幸せ、生じゃなくてもテレビや書籍、様々なメディアを通して選手を見られることは、有難いことなのだと改めて感じた次第だった。
色々考え込んでいた時期ではあったが、見たいものを、自分ができる限りの範囲で、みていこう。