熱狂の中で感じたこと
SNSを覗いて、好きな記事読みたい記事素敵な写真にファボをつける行為だけに終始して、自分の意見を呟けないのは、自分の中でやはり結論が出ていないからなんだと思い至った。結論というのは、野田秀樹が描いて見せた「エッグ」と、実際のオリンピックというのが、ずっと小骨のように引っかかっていたからである。
それをまとめないまま無自覚に閉会式を見ていたのだけど、予想外にその現実と虚構がリンクしてしまった。同時に自分の抱えていた、いろんな違和感が噴出してしまって、なんというか、少し落ち着こうぜと思ったのが一因であった。
で、自分がどうオリンピックを咀嚼して、どう自分の感想としてまとめ上げるかをやった方がいいような気がして、こうして書いている。
野田秀樹の描いたエッグは、自分には、自分自身を持つこと、というテーマに見える。これは「逆鱗」でも感じたことであった。この2作は自分の中では密接につながっていると思う。戦争が主題なこともあるのだが、そのずっとずっと奥には「声を挙げる必要性」とか「思考する必要性」とか、そんなことを感じる。
話を戻す。
スポーツ観戦をしていて、自分が突然現実に引き戻されるのは、熱狂に触れたときだ。「エッグ」で見た、熱狂の恐ろしさというか、気持ち悪さというのを思い出して、途方もなくドン引きしてしまう。熱狂は周囲を巻き込む嵐のようなもので、自分の中に生まれた僅かな違和感や疑問を押し流してしまうような感じがある。自分が好きなチームを見ていても、自分が熱狂に押し流されていて、自分の思うような試合展開にならなかった際に相手のことを傷つけてしまうような感情を制御する必要がある。だって、相手チームを応援する人たちだっている。自分の向こう側にも人間が存在することを忘れたくない。(これができる人もいると思う。私はできないだけ。)
椎名林檎さんが閉会式のセレモニーで使った曲の題名は「望遠鏡の外の景色」である。
曲を準備することもできただろうと思うに、なぜこの曲を使ったのかをずっと考えている。単純にオリンピック上のナショナリズム批判というか、戦争批判というか、そういうことじゃないと考えている。なぜならあの曲の著作権はもちろん椎名林檎さんにあるのだけど、「エッグ」のレッテルがべったり貼ってある曲を無自覚に使うほど考えてないわけではないと思う。
何より、その曲を使うことを野田自身だって知らないわけないだろうし。
熱狂の中にありながら、自分の声を殺さないこと、望遠鏡を覗く行為に夢中になりつつも、望遠鏡から目を離したときに、視点は180度も270度も360度も変わり得ることを自分の中にとどめておくことを忘れたくない。
エッグから自分が読み取ったのは、そういうことだったようにと思う。
東京を待望しつつも、望遠鏡の外の景色も見続ける必要性を投げかけていたようにも、あの閉会式セレモニーからは感じた。というか、感じたいでいる。
4年
リオオリンピックが終了した。(リオパラリンピックも控えているが、ここでは書きたいことの本題とずれるのでそれについては触れない。)
男子バレーボールの試合はできる限り、体力が続く限りはリアルタイム視聴していた。その試合も昨日決勝戦、3位決定戦が行われ、メダル獲得国も決定した。これをキャリアを区切りとする選手の表明もちらほら出てきている。
以前にSNS上で、オリンピックと他の大会との違いは何だろうという問いを見た。ナショナリズムなんじゃないかとかわかったようなことをその時言ったのが恥ずかしい。オリンピックは、祭典なのだなと見ていて思った。試合というより、祭典。皆がそこに向かっていくエネルギーにあふれたそういう試合の集合なんだ。だから祭典、と思った。
そのエネルギーは蓄積に4年かかるのだろうなと見ていて思った。バレー以外の競技も多く見ていたのだけど、そんな感情は最後までついてまわった。
だから簡単に4年後とは言えない。簡単に東京で待っているという言葉を私は言えないし、4年後はきっとメダルだとか、さらに上を、とかそういうことは言えないなという気持ちになりながら見ていた。試合が終わったその瞬間から、どの国にもどの選手にも等しく時間が流れていく(はずだ)けど、確証もなにもない状態でこつこつと続ける地道な作業が始まってゆく。
メダルとか、そこだけじゃなくて、その4年間を1刹那、1日と積み重ねていく姿を、ちゃんと自分の気持ちに素直になりつつ、見ていたいと思う。その先で応援したいなと思う、そんな気持ちを持ったオリンピックだった。
そういう意味では、自分の中でSNSの潮時が来ている気がする。
これからも観戦するための落書
バレーボールを見ていると、その時その時で発見があるものだといつも思う。
自分が応援している選手の意外なプレーであったり、相手チームの選手に心奪われたりする。
いろんなチームを見る機会に恵まれて、世界ランク上位を争う闘いも見れば、世界大会に初めて出場した国、またはそれを狙う国などを見ることができた1年だった。
とはいえ、私の知らない国、知らない選手たちはまだまだごまんといる。そして運よく目にしたその時、名前すら初めて知ったような状態ながら、その選手のプレーする姿をもっと見てみたい、見ていたいと思ったりすることを知った。
現在、ワールドリーグという世界大会の真っただ中であるが、私のひいきチームが出場するディビジョンは終了した。ひいきチームの試合を見つつ、たくさんの選手や光るプレーを目にした。そうすると、次はどこでその選手を見られるのか、楽しみが数珠つなぎとなって増える。無論すべてを見ることはできない。でも、またどこかで見たいなという気持ちを持てたなら、またどこかで目にすることができるような気がする。
まあ、何が言いたいかと言えば。決してトップ選手でもない、日本ではまだまだ名前も知られていないバレーボーラーであったとしても、それを自分の目で見たときの感想を大事にしたいと思うのだ。決して事前情報で、「あー、あの選手ってこうなんでしょー、このチームってこーなんでしょー」と決めつけてしまうような処理をすることなしに。
声の大きな人の価値観に、何も考えることなく、ただ収束していくことはしたくない。
これが、自分への、いわば二条河原の落書といったものになりますように。
雑考(続いてたらしい
本当のバレーファンも、正しいバレーファンもそんなものは存在しないと思っている。
本当の、というのは、何の価値観に照らし合わせているのか。正しいという言葉が出てくるのは、一つの価値観でものを見てしまうからなんだと思う。
ただ、バレーを見ているだけで、どこのバレーを見てて面白いなと感じるかどうかなだけだ。これは飲食店の味の好みと一緒だ、と5年くらい前から思うようになった。。安いチェーン店のラーメンが好きなのは間違っているのか、二郎系ラーメンは間違っているのか、山形県内で食べられているすっきり醤油ラーメンだけが正統なのか、って言ったらまあ違うよなあ…って何となく思えるわけで。
何の話だっけ?
あ、館中の佐藤君は東北に行ったのか。さあ、どうなるかな~。
4年後の未来に向けて
東日本インカレの決勝戦を見に行ってきました。
現在目下W、私は深夜観戦で忙しく(日本戦は心がすさむので一回も見てません)十分な睡眠時間の確保ができないため、頭がいかれていましたがチケットも買ったし、日帰りで東京まで。
(集中力にはまったくもってかけていましたが)楽しく試合観戦できたし、何より中央大谷口選手、早稲田大学喜入選手のハードワーカーに大変楽しませていただいたのでした。
ただ、見ていて気になった点がいくつかあったので自分の備忘録代わりに書き残します。
1点目、基礎技術について
特に2段トス。正直な感想を言えば雑だなと思ったことが多かった。うまいといわれてる選手でもそうだった。それと1本目をSがとり、ボールが乱れ、2本目をS以外がコートの端から対角線上にパスするときに距離感のミスからか3本目が相手コート、もしくはコート外に落ちるとか。基本技術の範囲内ではないのかと自分は思ったんだがそうでもないんだろうか。
2点目、サーブ戦術について
サーブ戦術があって試合に参加しているのかは見ていて正直わからないのが多かった。サーブでどこを狙うのか、はっきり意識してサーブを打っていると印象に残っているのは、早稲田の喜入。あとは力いっぱい打ってる感じ。でもそれではなあ。
戦術についてはまだ詳しくなく、大して何も語れないのだが、大学での4年間をどう過ごすかというのは、結構大事なんだと感じている。
その4年間を経たあと、日本の場合は企業に入社してセミプロバレーボーラーとしての日々が始まる。選手の技量によっては、全日本に召集されて世界を相手に戦うことになるんだろう。でもこれではと一抹の不安を感じたのは事実である。
なにも大学バレーを否定したいわけではない。選手たちの戦いぶりに楽しませてもらった面も十二分にある。だけど、が付く。(つづく
或る記録(バレーボールリオ予選に関して)
もう2週間ほどが経過しようとしているが、バレーボールリオデジャネイロオリンピック予選を見に東京まで行った。
目当ては2つあった。
1つ、海外の選手たちのプレーを実際にこの目で見届けたい
1つ、ワールドカップを経て、日本代表がどんな試合をするのかを見たい
もともとチケットをとろうと決めた時点では、2つ目の気持ちが強かった。そして日本代表が戦うであろう海外の選手たちがどんなプレーをしているのかを知りたかった。だから海外戦を見出したという経緯があった。
USAとの親善試合を見た際、私はUSAのプレーにばかり目がいった。それはUSAの方がわくわくするプレーの連続だったからだ。この時点で、OQT突破は厳しいのかもしれないと思い始めた。
結果として、日本代表は突破できなかった。私は海外戦を猛烈に楽しみ、ネットの画面で見ていた海外のスターとの遭遇に心躍り、そして日本戦では泣いてしまった。
泣いた理由は2週間たってやっと整理できてきた。
1つ目、あの会場の中で、あふれる情報量の多さに処理の限界がきた
2つ目、その会場が、選手の高揚感を煽る装置として機能しており、ケガでも強行出場しようとするそんな選手の姿を見ているのがつらかった。
3つ目、自分と周りの考えていることの違い
この辺も別エントリで書こうと思う。とにかく、完璧に負けだった。そのこと自体は別にショックではなかった。
戦術としての不備、選手の有効活用ができていないという件についてはその通りだと思う。あと、日ごろ拝読しているsputnik0829さんのブログでも
今、世界のバレーボールのトレンドは多様性にあると思う。 つまり引き出しの多さと、それらをいかに適切に使うかが問われている。
こだわらないこだわり - Stay Foolish
とあって、賛同した。こういうのもあったのだろう。WCでの(それまでの過去と比較した場合の)成功体験にこだわり、囚われてしまったのかもしれない。
大会から2週間がたち、様々なメディアが今回の試合の総括記事を書き連ねている。そして選手自体のコメントもちらほらではあるが出てきたのも一応読んでいた。
ただ、自分の中にするすると響いたのは、その中でわずかなものであった。
言わされている感、謙虚なようでいて、その実は傲慢なのではないかと思う言葉もある。それは文脈や背景を踏まえる必要があるから、決めつける気はないが、どうも違和感がぬぐえなかった。
この点に関しては別エントリに分けるとして。
今自分の頭の中であるのは、
1つ目、様々な反省材料を述べているにも関わらず、選手選考についての記事がない
2つ目、海外志向に触れている文は多いが、海外の現状についてまで踏み込んでいない(過去にも海外挑戦している選手は大勢いるが、あまり触れていない)
3つ目、現状戦力でどうすれば勝てたかの振り返りがない(将棋なんかである、感想戦が大手メディアからはたいして上がらない)
この3つから考えると、「現状把握してないのかしら」と思っても仕方ないとは思う。そしてその現状把握ができていないのに、その先がうまくいくはずがないと思う。これは、自分の先生からの教えであり、そして、自分が実感したこと。
今、自分の中には、東京で惨敗したら恥、的な気持ちはない。恥ずかしいとかは不思議と思わない。でもそこに駆り出される選手たちを思うと、なんとかしてくれと思う。それは恥ずかしいことになる前にという焦りの気持ちではなくて、願わくば彼らがもてる限りの力を尽くしてぶつかりあう試合を見たいという、祈りなのかもしれない。